言葉のキツさを感じたとき

友人との”深い付き合い”って、議論をすることなのかしら

自分の意見や感じていることは表明しないといけないの?

そういうのを人と共有するのが人の社会性?

しないのは寂しいこと?

「そうなんだ」と、ただ聞いてくれると自分のことは理解してもらえるけど、

ほぼ一方通行的に伝えあうことになる。

一方で、反論されたり指摘されることもある。

でもそれって、正しく理解されていないだけだったり、

それぞれが持つ経験や知識が違うから伝わらないだけかもしれない。

思いを持ったり感じることに、良いも悪いもないよね?

なのに反論したり指摘するのって、自分を正としていて要は相手を見下しているということじゃないのかな。

「へぇ~そんな見方もあるんだ」という発見にもなる?人それぞれ?

伝える側も正しく理解されるために正しく説明することに心を砕くべき?

同時に聞く側も、質問するなら理解しようとする姿勢を持つべき。

というかその姿勢を持たない人ならわざわざ伝える必要はないよね。

あとは共感。

共感してもらえると、安心できたり、この人は味方だと思えたりする。

私生活で議論をしたがるのって、面倒くさいと思ってしまう。

だって結局生きているのは自分で、”自分がどう感じるのか”に集中するには、自分の中を覗けばいいから。

悩ましいのは、外へ発信した方が生きやすくなるということ。

キャリアに近づく手助けを貰えるかもしれない、叶えたいことを叶える手助けを貰えるかもしれない。

これが社会性ということ?

間違いだと、指摘されるべきことは何か?

倫理観、人に迷惑をかける考え方、組織の中で持っているべき考え方かなあ

優しく温かい言葉の中だけで生きていきたい

人に優しく、温かい言葉を使おう

同じ内容でも言葉のチョイス、言い方、表情でずいぶん変わる。

自分の生きたいように、接したい人と接しよう。

特に私生活は私のものなのだから、人との距離感は自分でコントロールしよう。

人の言葉の奥に悪意を見つけないように。

自分も言葉に悪意を忍ばせないように。

ただ1つだけ、仕事でだけは自分のためにちゃんと伝えられるように、言語化は強化していこう。

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